戦争によって成長した近代琵琶楽はなぜ廃れたのか
今回は、琵琶の歴史に関して「知りたい」に応える記事です。
タイトルが「廃れた」となっていてちょっと過激な感じですが戦前ブームからすると現在の状況はまさに危機的状況です。今を知るために、過去も知っていただけるといいなと思います。
近現代における琵琶の歴史が知りたいな
戦前に琵琶が流行ったと聞いたけど、なんで今は廃れてしまったの?むしろどうやって流行ったの?
近代琵琶(薩摩・筑前琵琶)は、時代が近いこともあってまだあまり学術的な研究はされていないんです
だからこそ余計わからないことも多いと思いますが、10年くらい戦前の琵琶楽について研究しています
今は琵琶人口はとうに1,000人を切ったと言われています。
しかし、戦前は女性や子供もこぞって琵琶を演奏していた時代がありました。
どのように琵琶が広がったのか、時代を追ってみていきましょう。
1戦前の琵琶界を知るために
戦争の歌というと「軍歌」を思い浮かべる方が多いと思います。
出征する軍人を奮い立たせる歌が「軍歌」とするならば、銃後の守りと戦死者の鎮魂の役割を担った芸能のひとつが「琵琶歌」であったことは、あまり知られていません。
明治維新後、薩摩藩が政治に台頭したこともあり、薩摩琵琶が上京すると多くの新曲が作られました。
宝塚もこのころできていますが、少女たちがたくさん琵琶をもって登場する「琵琶少女歌劇」ができたことや、お座敷や小劇場では連日琵琶会が開催され、チケットが飛ぶように売れたなど大変な琵琶ブームが起きたこともまた知られていません。「琵琶少女歌劇」からは、女優の田中絹代さんなどを輩出しています。
田中絹代(1909〜1977)
また戦前は、洋楽よりも断然琵琶楽等邦楽の人気が高く、同じ明治期に急成長した浪花節と同様に、人々の関心は洋楽よりも邦楽寄りであったことも伺えます。
この図は、ラジオ放送の調査報告です。
琵琶(赤〇)は音楽部門でリクエスト第一位、第二位は和洋合奏、第三位は義太夫となっています。
右側は演芸部門で、リクエスト第一位は浪花節(浪曲・青〇)、第二位は落語・講談です。
琵琶は歌の構成が七五調とわりと硬めの歌詞ですが、それが好きな方が多かったんですね。
演芸物は、語り口も分かりやすい浪花節、落語、講談が人気でした。
それにしても浪曲の人気がすごいね
琵琶と浪曲を混ぜたスタイルの人もいたんだよ
図 昭和七年
『第一回全国ラジオ調査報告』 「嗜好總数ヨリ見タル各種目嗜好干分比」日本放送協会(1935)より |
2近代琵琶楽と富国強兵政策
では、なぜ近代琵琶楽は、人気を博したのでしょうか。
近代琵琶楽(明治時代以降流行した薩摩・筑前琵琶)が流行した背景で忘れてはならないのが、戦争との関係性です。
江戸時代までは「国家」という概念も「国民」という概念も日本人にはなく、明治維新によって欧米列強に対抗するために様々な国策がとられました。
憲法の制定、国歌の制作…それを主導したのは明治維新で勝利した薩摩藩出身者であることは言うまでもありません。
薩摩藩は外様大名のうえ江戸からかなり遠方ということもあり、江戸時代は藩独自の方法で武士の教育に力を入れていました。
九州一円にはいわゆる琵琶法師、盲僧琵琶に携わる者が多くおり、彼らの協力を得て独自の琵琶(=のちに薩摩琵琶といわれる)を藩内で教育するようになりました。これが薩摩琵琶の興りです。
その琵琶を持って上京した薩摩藩士の演奏を明治天皇が東京の島津邸で耳にし、その後、御前演奏の機会が増えたり、天皇ご自身や皇族も琵琶を習い出したりしたことが薩摩琵琶ブームの契機です。
島津邸で御前演奏をした西幸吉、吉水錦翁等が薩摩琵琶界を牽引し、鹿児島から薩摩琵琶の名人が明治30年代に数多く上京しました。
そして明治維新後初めて海外派兵した台湾出兵に続き、日清・日露戦争に勝利したことが近代琵琶界に大きく影響しています。台湾出兵の琵琶歌も作られました(「『台湾入り』)。
琵琶楽の機関紙であった『琵琶新聞』は日露戦争勝利後の1909(明治42)年に創刊され、戦争に勝ち進むとともに、同時代もの=戦争に関する新作琵琶歌の発表が紙上に毎月のように掲載されていました。
もちろん演奏会情報を見れば、日清・日露戦争以前に作られた古典も数多く演奏されてはいましたが、同時代ものの琵琶歌を作成し、演奏することで人々の関心は自然と戦争に向けられ、琵琶人として国に貢献したいと考える琵琶人が多かったと考えられます。
『琵琶新聞』とは
琵琶愛好家であり、琵琶の常設小屋であった和強楽堂のブッキング担当であった椎橋松亭が創立した「琵琶新聞社」が明治42年に発刊。
その後休載なども何度かありながらも、紙の配給がなくなる昭和19年まで約35年間、断続的に発刊された近代琵琶楽の機関誌です。新聞というよりも雑誌の形をとっていて、演奏会情報、コラム、曲の解釈や新曲紹介のほか愛読者による投書も多く、意見交換の場としても利用されていたようです。
現代のTwitterのような使われ方もしていて面白いなぁと思いながら読めます。
いわゆる、エアリプ、クソリプ、引用リツイートみたいなことをしながら琵琶愛好家たちが意見をぶつけているのをみているといい時代だなぁと思えます。
エアリプ、クソリプは今も別にいらないですけど…ね。
東京で起こった薩摩琵琶の流派である錦心流の流行により、大正14年から5年ほどは『琵琶新聞』を休載し、薩摩琵琶・錦心流に特化した別冊の『水声』を発行しています。
ちなみに錦心流を興すように宗家永田錦心に促したのも椎橋松亭であり、永田の「永」の字を「一」と「水」に分け、会の名前を「一水会」とし、昇段試験により許されたものは水号(名前に〇水)を芸名に使用しました。
これは今も踏襲されているので、芸名で〇水の方は錦心流です。
昭和18年『琵琶新聞』8月号 題字
ちなみに、『琵琶新聞』の題字は何度か変わりますが、この字は誰でしょう?
「汚い字で読めないなー」と思っていて本文をよく読むと、右翼の親玉である頭山満氏による題字です。
彼は浪花節、詩吟、琵琶のパトロンをしていて誕生日に大演奏会大会まで開かれています。
意外なところで琵琶界と政界がつながっていた様子も『琵琶新聞』を読むことで分かります。
3琵琶人の戦争参加
『琵琶新聞』をひも解いていくと、琵琶界においては軍部や国家が琵琶を通じて愛国精神を煽るような歌詞を作らせて国策に利用したというよりも、戦争という一大事に琵琶で貢献しようと積極的に参加する者が多かったようです。
戦争に関する琵琶歌を作成し、慰問演奏会を開催することもよく行われました。
また、『琵琶新聞』が創刊された明治40年代頃などは婦女子が琵琶を演奏することの是非について誌上で論じられていましたが、『琵琶新聞』編集者のひとりである山内楚影は「薩摩琵琶と女性」というコラムのなかでこう述べています。
「吾人は先づ琵琶を家庭に直輸入する事が最適切で近道だと信ずる。(略)母親でもよろしい、家庭に於て母の感化ほど実に偉大なものはあるまい(略)由て吾人は此の家庭教育の主脳者、直接に重大なる責任を有する現代の母親及び将来に於て母たるべき女性に向って琵琶を衷心から推奨せんと欲する者である。」山内楚影『琵琶新聞』4号明治42年5月号
もとの話はこちらです。
はじめは女子が武士の楽器である琵琶を演奏することがよくない!声量や力がない女に琵琶ができるか!女が琵琶を演奏しても欧米列強に対抗できない!と言われていたのですが、時代がくだるとともに婦女子が積極的に琵琶によって家庭内での道徳教育をすべきだ、ということが幾度となく『琵琶新聞』内で推奨されています。
つまり子守歌がわりに琵琶歌で、子供たちに情操教育を…ということですね。
実際に太平洋戦争直前にブームであった筑前琵琶はとくにその風潮が強く、女性の演奏家もたくさん輩出しています。
また1910年以降は戦地に赴く琵琶人も多く、樺太や台湾、満州、朝鮮半島にも支部が設置されました。戦地に赴いた理由として、本業が琵琶以外にある琵琶人が多かったということ、最終的には全国民が戦争に動員されたからだと考えられます。
内地以外の演奏活動も多く、『琵琶新聞』内で朝鮮人の演奏家がいたことや朝鮮半島に琵琶店が複数あったことも報告されています。
錦心流の海外支部が京城(当時のソウル)と釜山支部として存在していた記録はあるのですが、私がソウルで探した限り資料が全然見つかりませんでした…。
また、樺太にも支部があったり、樺太に山口速水氏や水藤錦穣氏が演奏にいった記事は『琵琶新聞』内にも見られます。
結構自ら突っ込んでいってる感じがありありとわかるよ。でもそれも時代なんだとも思う~悪気があるわけじゃなくて、本気でお国のためって思ってるっぽいね
琵琶を演奏する者として、誰かの役に立ちたいという気持ちが皆にあったことはよくわかります。
戦争というものは、それだけ大きな事象だったのだなということが伺えます。
家庭内での道徳教育で琵琶を聞かせ、外では兵隊さんの慰問演奏をする、女性や子供が舞台に出れば、チケットが売れるため興行となる…と、とにかく琵琶がなにかにつけて人々の生活に密着していた不思議な時代でもありました。
それだけ密着していたので、戦争という大きな目標がなくなったと同時に廃れるのもはやかったようです。
もっとも、敗戦で食べるものにも困っている状況ですから、すぐには琵琶という状況ではなかったでしょう。
戦争によって成長した近代琵琶楽がなぜ廃れたか、まとめ
「戦争に利用されたから近代琵琶が廃れた」という言葉を、琵琶界にはいってからよく耳にしていましたが、証拠がなく、いつもモヤモヤしていました。
私が調査してきて、わかったことは以下の理由が考えられます。
②戦争で多くの琵琶人が戦死、または琵琶の道を去った
③アメリカの映画音楽などの新たな娯楽が増えた
④継続的な琵琶の宣伝活動が減少
近代琵琶楽は国民国家形成、戦争という大きな時代背景のなかで急激に成長し、敗戦とともに需要がなくなったという不思議な発展を遂げた芸能といえます。
「今を歌う」という役割を失った戦争ものの琵琶歌は、人々に何度も演奏され、学ぶべき手本であるという「古典」となることなく、米国占領下での厭世観や新たな映画音楽等の娯楽の流入で急速に衰退していったのでしょう。
1960年代には『ノベンバー・ステップス』に代表される現代邦楽などが注目され、琵琶楽が盛り上がったかのように見えましたが、器楽曲は琵琶歌ではない、などと批判も多かったようです。
これは琵琶ではない、と批判するのは簡単ですが、行き詰っている状況から再び注目を浴びせるように働きかけたことはどんなことでも評価すべきと思います。
それを行ったのが、私の流派の宗家・鶴田錦史だから、というわけではありません。
琵琶楽の核の部分はきちんと持ちつつ、時代のニーズを読んで時代に合わせながら生き残っていくのが芸能です。
芸能は生きている、ということを常に忘れずに演奏活動をしたいものですね。
現代人であるからには、現代人として享受しているテクノロジーや現代人が受ける感覚というのは必ず体験しているものです。
明治期の人と全く同じ体験はできませんから、当然琵琶の古典に対しても全く同じにはできないでしょう。
しかし、流派に所属している以上、その流派が美とするもの、表現したい方向性は同じである必要があります。
単なる物まねではなく、琵琶音楽の表現の根幹をきちんと継承し、次世代へとつなげていきたいと思います。
私は最近になってやっと、「書く」ことでそれを琵琶を学ぶ人以外にも伝えていこうという気持ちになれました。そういう世界があることを知ってくださるだけで励みになります。
琵琶ってかっこいいね、そういわれるとやっている側からすると嬉しいものです。
そう思っていただけるよう、演奏や稽古をがむしゃらにやってきても、結局伝えようとしなくては井の中の蛙です。
ネットは難しいからわからないから宣伝しない…は現代人には通用しないですね。
頑張って発信してまいります!
ビワビワ!