琵琶歌の歌詞の歴史について(江戸~戦前までの新作琵琶歌)

こんにちは。琵琶ゆんころです。

私は演奏や教室運営の傍ら12年近く近代琵琶楽(主に薩摩琵琶)の歌詞について研究しているのですが、今日は私の研究の一部を紹介します。

 

琵琶のざっとした歴史はこの記事ご参考に🎵

 薩摩・筑前琵琶は明治維新後に、はからずも薩長土肥の政治台頭により東京に上陸し、富国強兵政策とともに空前のブームとなったことはあまり知られていません。

皆琵琶といったら「耳なし芳一」「琵琶法師」というイメージですよね?

でも実際は明治維新から東京で大流行し、戦争とともに大きく膨らみ、終戦とともに急に衰退するという数奇な運命をたどっている芸能なのです。

明治維新で九州の一地方の芸能が、上京してその人気が全国に広まるとともに新作琵琶歌が沢山作られます。

 

琵琶歌が作られていく経緯を私は「江戸期~終戦あたり」までの短いスパンですが4つに分類してそれぞれの特徴を述べたいと思います。

 

1近代琵琶歌の歌詞成立の時期4つ

近代琵琶歌の4時期
①江戸期(「蓬莱山」「小敦盛」「送別」など)
---------(七五調導入・大量生産可能)-------------
②黎明期(「川中島」「城山」「本能寺」「楠公」など)
③発展期(「別れの国歌」「日本海海戦」「威海衛」「旅順港」など)
④投書期(「新嘉坡(シンガポール)の陥落」「特別攻撃隊」「嗚呼山本元帥」など)

大きな変化は①から②にかけてです。

江戸期に薩摩藩で歌われていた薩摩琵琶歌は今のように必ず「七五調」で構成されていたわけではありませんでした。

でも今も歌われている江戸期に作られた古典曲って七五調じゃない?

 

それは時代を経て、「七五調」が一般化してきたころにだんだんと七五調に寄せていったからなんだよ。自由詩よりは定型文に落とし込んだほうが歌いやすいからね

 

1江戸期

成立した時に必ず七五調というわけではなく、後世歌われるうちに七五調に変化したものが多いと考えられます。

内容としては主に薩摩藩内の忠君もの、『平家物語』などの古典から題材をとったものや抽象的な題材が多いです。

 

2黎明期(明治維新1867年~)

七五調を完全導入し、歌詞の創作の典型化が図られてきます。

明治30年代になると演奏家が鹿児島から上京し、天皇の御前演奏(天皇の前で琵琶を披露)などが流行ったり、富国強兵政策とあいまって時代の「今」を歌った新作が必要となりました。

江戸期は三味線音楽が流行っていた東京ですが、惚れた腫れたで心中を図られていては国を強くして欧米列強に立ち向かおうとする国策とは合わないので、芸能によって己を鼓舞するスタイルの薩摩琵琶は東京に上陸するや大人気&励行されるようになりました。

そうはいえども、琵琶歌をよくわかっていないと作詞作曲(当時は作曲の概念が今と違うので、単に作、と記したり作調といったりしました。定型の節をつけることをこう呼びます)もできませんから曲の作り手のメインは演奏家になります。

天皇に早々御前演奏を披露した吉水錦翁をはじめとし、小田錦蛙、高松春月などが多くの新作を作りました。また勝海舟が作と言われている薩摩琵琶の基本の曲ともされている「城山」も当時の「今」を歌った新曲としてこのころ作られます。

 

3発展期(日清・日露戦争~1894年~1920年頃)

歌詞の創作が浸透し、プロの作詞家の出現してきます。代表的な作詞家は『琵琶新聞社』の編集員でもある飯田故春や田中濤外、葛生桂雨などです。彼らの作品は今も演奏されています。この時代になると全国に150以上の流派が乱立し、その中でもいまでも全国一のシェアを誇る錦心流が盛んになっていきます。

 

錦心流は水号といって芸名に「〇水」という名を貰うのですが、〇にあたる字がなくなったり、常用漢字でないほど漢字が足りない!という事態になるほど人が増えたそうです。

 

このころは古典曲だけでなく、時代にあった=今を歌った新曲を多く作成しています。「橘大隊長」「乃木大将」「別れの国歌」「日本海海戦」「威海衛」「旅順港」「台湾入」など対欧米との戦いで勝利したこともあり軍神や国家の英雄の美談を中心に琵琶歌が製作されました。

 

はじめは「日本海海戦」のように軍歌と歌詞を同じくするものもありましたが、徐々にぼやっとした抽象的な琵琶歌ではなく、主人公の人物像や心情にスポットを当てた曲構成にする作品も増え、より心情移入がしやすい琵琶歌も出てくるようになりました。

 

そうするとますます「戦争を琵琶で応援!」というのがやりやすくなり、プロパガンダに利用されたというよりも戦争に役立つために演奏家たちはみずから琵琶歌で自らを鼓舞したり、戦争に関する琵琶歌で慰問や追悼をしたりなどが盛んになっていきます。

このころは琵琶を演奏する少女たちも励行され、女の子に戦争の歌を歌わせるというカタルシスも好まれているようです。AKBに自衛隊のCMをやらせるようなものでしょうか…。

とにかく女の子が芸能に絡んでくるとチケットも売れ、人気になっていくのでこの時代の琵琶歌新作はどんどん作られ、盛んになっていきます。

4投書期(1920年後半~1944年まで)

 

この時代になると一般人の投書による新作が多く出現してきていわゆる「懸賞荒らし」も多く出てきます。

「懸賞」というのは、新聞社などが主催した、軍歌、詩吟、琵琶歌の歌詞を募集して採用されると賞金がでるというもので戦前はよく戦争に関する歌詞などを募集していました。

 

『琵琶新聞』だけでなく各出版社や新聞社が募集していました。特徴としては時局の変化に合わせた新曲を早いスピードで製作しするので早いのはいいのですが歌詞のレベルの低下が見られます。私も6曲この時期の新作琵琶歌を復元していますが、歌いにくいです。

 

というか、口になじまない言葉遣いのままなので推敲していないことはないのでしょうが、曲の完成度よりもスピード感重視で製作していると見受けられます。

 

内容としては日々更新される時局に合わせた曲を作成しており、「肉弾三勇士」「梅林大佐」「嗚呼加藤部隊長」「嗚呼山本元帥」「特殊潜航艇」などが挙げられます。

 

このころは薩摩琵琶よりも筑前琵琶が盛んになってきます。婦女子は家庭道徳として琵琶歌を子守歌代わりに家庭で披露するのが好ましいなどと『琵琶新聞』内でも言われており、女性の演奏家が多く誕生しました。

 

 

 

私はこれまで懸賞琵琶歌を含め6曲復元を試みていますが、その中で新作(昭和17年のだけど(笑))「新嘉坡(シンガポールの陥落)」について見てみたいと思います。

歌詞は以下です。縦書きにしたいので画像にします。

作詞家は英雲外氏。この人の著書として能楽関連の著書があるのみで『琵琶新聞社』に昭和初期頃から投書や意見書を提出しはじめ、連載を持つようにまでなった方ですが本人は演奏はしないとのことでした。

名古屋在住だったこと、漢詩の製作が得意(詩吟の投書も多い)のは分かるのですが、どういう人物だったかは私はまだ追えていません。なにせ『琵琶新聞』が昭和19年8月号で終刊となってしまってからは機関紙らしい機関紙がなくその後の演奏家に関しての情報も分散してしまっているからです…。

昭和17年2月号に既に英雲外氏によりこの詩が掲載されており、『琵琶新聞社』にこの作品を作るにあたっての経緯を投書して書いていますが、面白い記事が上がっていました。

が、JPEGにすると字がつぶれてしまうのでざっとまとめるとこんな感じ。

元々明治維新勤王烈士である安積五郎の作から引用したとのこと。
翌月号で英雲外作として『琵琶新聞』に投書。
各流派節付け自由となっている。(筑前琵琶でも薩摩琵琶でも流派とわず演奏してねということ)作ってみたものの、普通は半年以上試行錯誤して演奏者の意見もいれながら製作するものであって、なかなか口になじまず上手くいっている感はしないけれども、この史実に直面したので書かないわけにもいかないのでかいてみました、と自ら付焼刃を謡ってはいるものの提出した作品です。

 

シンガポールの陥落はイギリス軍が支配しており、難攻不落と思われていたがわずか1週間程度で日本軍が勝利することとなりました。

シンガポールの戦いの経緯
昭和17年
・2月8日:シンガポール上陸、イギリス軍との交戦開始
・2月12日:負傷兵、オーストラリア軍の看護師らが商船にてシンガポール出港。日本軍の航空機により爆破されバンカ海峡で撃沈。生存者も日本軍に皆殺しにされる。
・2月14日:イギリス軍病院襲撃
・2月15日:イギリス軍降伏によりシンガポール陥落。
8万人の連合国兵が日本軍の捕虜となる。
シンガポールは日本名「昭南」と改名させられる

何かご存じの方、資料をお持ちの方はお知らせ頂けると幸いです。

 

資料に関してや研究にたいしてはよく叩く、叩かれるを見るのですが芸能に関しては真実は一つだけではないと思います。同じ芸能をやっていても考え方は全く違っていますし、こういうことを考えているんだ―くらいに思っていただければ幸いです。

 

私は琵琶を学び、一生を賭けていくものに対して正しい理解、清い気持ちで向かい合えるようにしたいと考えており、間違った方向だったかもしれませんが戦前に何があったのかを明らかにしたうえで取り組んでいきたいと思っています。

 

戦争にかかわったことを伏せて、「琵琶は武士の芸能です!カッコいいでしょ!」というのは簡単です。

 

琵琶楽が自己の内面と向き合うものだからこそ、戦争という題材とマッチしたのであり、時代がそうだったので誰も責める気もないし、合った事実は変えられません。

 

大切なのは過去を振り返り、未来を見ることです。

 

そのためには今をしっかりと確認する必要があります。

私達ひとりひとりができることは限られていますが、私は未来に薩摩琵琶を繋ぐため地道に時代に合わせた活動を行っていく所存です。

 

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