独学をおすすめしない理由——「型に入る」とは

「独学でもできますか」
というご質問を、よくいただきます。

いろいろな考え方があると思いますが、わたしの考えははっきりしています。

伝統芸能の独学は、おすすめしません。
というより、ほとんどの場合、成立しません。

意地悪で申し上げているのではありません。
独学で何年もかけたあとに、ふりだしへ戻ることになった方を、何人も見てきたからです。

なぜ、ひとりでは無理なのか

理由はひとつです。
自分の音は、自分には正しく聞こえないからです。

弾いている本人には、撥がどこに当たっているかも、首が傾いているかも、息が止まっていることも分かりません。
鏡を見ないで髪を切るようなものだと思っていただければ、近いかもしれません。

「正しいやり方を、正しい順番で、正しく続けられている」——この確認を、自分ひとりでは行えません。
できていないことに気づけないまま、何百回も繰り返してしまう。これがいちばん怖いことです。

ひとりでできると思ってしまうのは、たいてい自分の力を少し買いかぶっているときです。
わたしも昔はそうでした。だから言えます。

わたし自身、遠回りをしました

偉そうに書いていますが、わたしも最初から分かっていたわけではありません。

若いころは、何を直せばいいのかが分からないまま、ただ時間をかけていました。
先生に言われたことの意味が分からず、自分なりの解釈で弾いてしまったこともあります。

あとになって、「言われたとおりにやる」ということ自体が、ひとつの技術だったと気づきました。
素直にやるというのは、何も考えないことではありません。自分の解釈をいったん脇に置く、という技です。

それができるようになってから、ようやく前に進みはじめました。
ずいぶん長い回り道でした。だからこそ、同じ道を通らなくていいようにお伝えしています。

手の形ひとつ、撥の角度ひとつが、音を決めます
手の形ひとつ、撥の角度ひとつが、音を決めます

動画や教本では、なぜ足りないのか

いまは動画もありますし、譜面も手に入ります。
それを見ながら進められないでしょうか、というご相談もよくいただきます。

動画や音源は、参考にはなります。わたしも資料として聞きます。
ただ、それだけでは型には入れません。

動画で分からないこと

・力の入れかた、抜きかた(見た目では分かりません)

・息の使いかた、どこで吸っているか

・撥が弦に当たる角度と深さ

・その人の体格だからできていること/あなたの体ではどうするか

何より、動画はあなたの演奏を見てくれません。
稽古というのは、あなた一人のために仕立てられるものです。既製品ではなく、オーダーメイドです。

同じ曲でも、言われることは人によって違います。
姿勢も、声も、手の大きさも違うからです。それを見てもらえることに、お金と時間を使っていただきたいのです。

我流は、あとから直すほうがずっと大変です

ひとりで覚えた弾き方は、驚くほど身体に染みついています。

何年も我流で続けたあとに稽古に来られると、まずそのやり方をほどくところから始めなくてはなりません。
直す時間は、ゼロから覚える時間より長くかかります。

そして——ここが本当に残念なのですが、直している途中で辞めてしまう方が多いのです。
「せっかく弾けていたのに」と感じてしまうからだと思います。

その何年かは、その方のいちばん貴重な時間でした。
だからわたしは、はじめの段階こそ先生についてくださいとお伝えしています。

「型に入る」とは、どういうことか

伝統芸能では「型」という言葉をよく使います。
堅苦しく聞こえるかもしれませんが、むずかしい話ではありません。

型とは、先人が積み上げてきたやり方を、
正しい言葉と、ある程度そろった形に落とし込んだもの

型があるから、他人に手渡せます。
型があるから、時代をまたいで残ります。

そして、型に入らないと、そもそもスタートラインに立てません。
我流というのは、スタートラインの手前で走り出してしまっている状態です。

よく「型を破る」と言いますが、あれは型にどっぷり浸った人にしかできません。
浸っていない人がやると、ただの自己流です。

そろっている、ということの意味

型には「ある程度そろっている」という面があります。
これは、みんな同じ機械のように弾け、という意味ではありません。

同じ曲を、同じ約束ごとで弾けるようにしておくという意味です。
約束ごとが共有されているから、合奏ができ、師から弟子へ渡せます。

ここがばらばらだと、琵琶は一代で終わってしまいます。
型は、個人を縛るためのものではなく、次の時代へ渡すための器だと思っています。

「見て盗め」には、反対です

芸は見て盗め——昔はよく言われた言葉です。

わたしは、この言い方には反対です。

住み込みで生活をともにして、師匠が弟子の一日を見ている。そういう関係のなかでなら、成り立ったのだと思います。
週に一度、一時間お会いするだけの間柄で「見て盗め」は、無理があります。

ですからうちでは、盗み方から、教わり方から教えます。
どこを見るのか。何を真似るのか。どう持ち帰って繰り返すのか。そこまで言葉にします。

これは、わたし自身が真似の仕方がまったく分からなかったからです。
分からないまま何年も過ごした人間なので、同じ思いはしてほしくないのです。

真似るのは、声ではなく「核」です

「先生の真似をする」というのは、正しくもあり、間違いでもあります。

真似の仕方を間違えると、ただのものまねになります。
声色や癖をなぞっても、芸にはなりません。

真似るのは核のほうです。
間の取り方、声の運び、言葉の置き方、音の決め方——そこが同じであれば、性別も年齢も体格も違っていて構いません。

わたしの師匠は、鶴田錦史先生とは性別も年齢も違います。それでも核の部分が同じです。
稽古とはそういうものだと、師匠の稽古を聞くたびに思います。

核が同じであれば、器が違っていてもつながっていきます
核が同じであれば、器が違っていてもつながっていきます

流派が違っても、構いません

琵琶にはいくつもの流派があります。
人の性格も、体つきも、声も違うのですから、やり方がいくつもあるのは当たり前です。

ただし、核の部分だけは間違えてはいけません。
核が合っていれば、器である身体が違っていても、流派として成り立ちます。

一方で、核を外したものまで「個性です」「流派です」と呼んでしまうのは、違うと思っています。
古典の稽古というのは、その器を育てるところから始まります。器がざるのままでは、何を注いでも漏れてしまいます。

自分を出すのは、ずっとあとです

個性や自分らしさは、どうしたら出せますかと聞かれることがあります。

正直に申し上げると、演奏に関して、わたしは自分らしさを求めていません。

個性は、欲しがった時点で出ないものだと思っています。
やり続けて、向き合い続けた人から、自然とにじみ出てくるものです。

狙って出した「らしさ」は、たいてい薄っぺらくなります。
必要なのは、生き方と向き合い方だけです。芸は、師に教わったとおりに。

それでも、いますぐ先生につけない方へ

事情があって、いますぐ習いに行けない方もいらっしゃると思います。
その場合にやっておくとよいことを書いておきます。

① 演奏会に足を運ぶ
生の音を知らないまま始めると、目指す音が分かりません。録音では分からないことがたくさんあります

② 曲の背景を読んでおく
『平家物語』でも、幕末の物語でも。意味が分かると、節の感じ方が変わります

③ 変な癖をつけないように、弾き込みすぎない
これがいちばん大事です。独学で固めてしまうと、あとでほどくのが大変です

④ 体験に一度行ってみる
通えるようになってからでなくても、一度さわってみるのは早いほうがいいです

「いつか習おう」と思っているうちに、習える場所がなくなることもあります。
琵琶を教えている人は、そう多くありません。これは本当のことです。

先生選びで、ここだけは見てください

独学を避けるとなると、次は「誰に習うか」です。
前回の記事でも書きましたが、ひとつだけ付け加えます。

演奏が上手いことと、教えるのが上手いことは、別の能力です。

自分は弾けるから教えられる、というのは甘い考えです(かつてのわたしも含めて)。
体で分かっていることを言葉にできるか、そして誰がやっても同じ結果になるか。この2つを持っている先生を探してください。

東大に入れる人が、人を東大に入れられるとは限りません。
音楽だけは、なぜかこの2つが同じだと思われがちです。

型に入ると、自由になります

型は窮屈なものだと思われがちですが、わたしはむしろ逆だと感じています。

約束ごとが身体に入っていると、いちいち考えなくてよくなります。
考えなくていい部分が増えるぶん、物語や間に集中できます。

舞台の上で自由に見える人は、たいてい型が深く入っている人です。
何も入っていない自由は、ただの不安定です。

まとめ

✔ 自分の音は自分に正しく聞こえない。だから独学は成立しにくい

✔ 我流は、あとからほどくほうが時間がかかる

✔ 型とは、先人のやり方を言葉とそろった形に落とし込んだもの。入らないと始まらない

✔ 「見て盗め」ではなく、盗み方・教わり方から教わる

✔ 真似るのは声ではなく核

✔ 自分らしさは、狙って出すものではなく、にじみ出るもの

遠回りのように見えて、型に入るのがいちばん早い道です。
そして、入ってしまえば一生ものです。

ビワビワ。

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